2015年11月11日水曜日

水筒のふた

藤 明日香さま

こんにちは。
季節ごとに一度の往復書簡、のつもりが、出だしから返球が遅くなってしまいました。
夏のお便りに夏の話題を返すべきところでしたが、もう11月ですし、秋の話題を。

9月半ばから10月末にかけて、遠足の児童の声で電車がにぎわうことがありますよね。通勤の時間帯なので「やっかいなのに遭遇したな」という顔をしている大人がほとんどですが、僕はそんなに嫌ではありません。好きかというとまた違うのですが、どきどきします。彼らに出くわすと、ある記憶がとても生々しく甦るからです。

近ごろはリュックからサーモスを取り出すモダンな子もいますが(量が足りるのか心配)、ほとんどの児童は肩から水筒をぶらさげています。その色とりどりの水筒を見ていると、初めて行った遠足のこと、それも、あるひとつの出来事を鮮明に思い出します。幼稚園の年少のときですから、遠足とぎりぎり呼べる遠さの、近い場所への遠足です。それがどこなのか、そこで何をしたのかはさっぱり覚えていないのですが、おしりの下にたくさんどんぐりがあって痛かった記憶を糸口に、お弁当を食べた芝生公園が目の前に広がります。何人かごとのグループに分かれて、それぞれ小さなレジャーシートを広げて寄り合っています。ひろい芝生は緑の海で、そこにいくつかのカラフルな島が浮かんでいるようです。ぼくのいる島は木の下で、海は他の場所より剥げていて、土はほんのり湿っています。クマのワッペンのついた黄色のゴムバンドを外してお弁当箱のふたをあけると、サッカーボールの丸いおにぎり、タコのウィンナー、マヨネーズまみれになったブロッコリー、たまごやきの断面が現れます。好物のプチトマトが3つも入っているせいで、サッカーボールはすこしへこんでいる。ものすごくうれしい気持ちになったぼくはそのあと、同じくらい悲しい気持ちになります。八代亜紀さんの「悲しみの法則」という曲に「振り子のように悲しみの法則は湧き上がる」というくだりがありますが、喜びのあとに悲しみが同じ大きさで来るこの法則を、物心ついてからの人生でこのときはじめて経験します。お茶を飲もうとして、水筒のふたがどうしても回りません。めいっぱい力を込めて回すのですが、だめです。先生は何かとても忙しそうで、声をかけることができません。それでぼくは結局その遠足を、お茶を飲めないまま過ごしました。

家に帰って母にそのことを伝えると、母は泣き出してしまいました。ごめんねごめんねと繰り返して、それから、なんでせんせいにいわへんかったん、と泣きながら両肩を揺すってきました。リュックの中で水筒のふたがゆるんでお茶が漏れだしたりしないように、母はいつもよりきつくふたをしめていたのでしょう。善意がからぶりして息子を傷つけてしまったことで自分を責める気持ちと、ふがいない息子を責めることで自分をなぐさめようとする気持ち。頭の中がぐちゃぐちゃになったのだと思います。幼いぼくは母と一緒に泣くことしかできませんでした。そのときの母は今の僕よりひとまわり以上若い年だったことを思うと、今さらですが、ぼくのほうこそごめん、という気持ちになります。

最後に、お誕生日おめでとうございます。
ぎりぎりすべりこみで間に合って良かったです。


岡野大嗣